暮らしの点と線

@suzuki_buffalo 結びます

桜の季節

 二〇一二年の就職活動中にぼそぼそと呟きはじめたTwitterも、今年で四年目となりました。当初、「イケメンバッファロー鈴木」という意識の高い猛牛アカウントだったぼくも、就職活動によって立派な角をたたき折られ、その他多くの紆余が曲折し、鈴木ザ煉獄丸という地点に収まりました。@suzuki_buffaloというIDの「バッファロー」の部分は、正社員という幻想に身を突した雄牛の、ぎらぎらした闘気の名残りです。当時のTwitterはFavstarの全盛期であり、またShootingStarというクライアントによる「パクツイ」文化圏がじわじわ拡がっていたと記憶していますが、これもまたインターネットの昔話の一つに過ぎません。四年でひとむかしです。なんせ四年前の四年前は、魔法のiらんどがまだまだ現役だったんですから。

 

 そんな、ひとむかし前の二〇一二年。ぼくは就職活動について、毎日毎日飽きもせず、まっすぐに呪詛を呟き続けていました。そのうち、面接で額を伝った脂汗が人知れず石を穿ったのか、あるいは執念じみた継続が何らかの力を与えたのか、ともかく「鈴木ザ煉獄丸」の存在は、二~三ヶ月ほどの間にじわじわと増幅していきました。フォロワーの数が四桁を超えた頃でしょうか、誰かがぼくを「じょーねつの再来だ」と評しました。なんでも一年前に、やはり就職活動についての呟きで脚光を浴びた「じょーねつ」という人間がいたようで、なにやら鬼気の迫りかたと云うのか、発狂じみた焦燥や破滅的な言動が、とてもよく似ているとのことでした。二〇一二年の春先のこと、今から丁度四年前のこのとき、なんとなく氏の存在についてはじめて認識したように記憶しています。

 

 夏を目前にした六月のある日、ついにぼくにも内定が出ます。当時、ぼくの焦りはいよいよ頂点に達しており、端的に言うと発狂状態にありました。七月や八月に周回遅れでスーツを着るのが、途方も無く嫌でした。そんなある日、面接ですっかりパンチドランカーになって、ふらふらと徘徊していた渋谷の街角で、「きっと大丈夫」という趣旨の音楽が流れていたのを耳に留めたとき、頭のなかに何やらおかしな煌めきが一寸、ちらと見えた気がしました。なあんだ君たちはなんにも分かっていないんだね。だれにでも大丈夫だなんておかしな話だ。ぼくは真直ぐ帰宅し、丸一日六畳に籠りっきりになって、自分で自分にとびきりの「就活応援ソング」を作りました。そうして歌を録り終えたその瞬間に電話が鳴り、内定が出ました。それ以来、粗削りで出来の悪いこの曲は、ぼくにとって特別思い入れの深い楽曲となりました。

 

 

 

 その後、「初対面のコミュニケーション障碍者四名で寡黙に七輪を囲む」焼肉や、「内定のない若者同士で飲み会を開いたが、いざ当日になってみると主催者以外の全員に内定が出ていた」とかいう飲み会などを経て、インターネットの人間と実際に出会う恐怖心のようなものが和らぎ、少しづつ交友関係が(ぼくの手の届かぬ所までも)広がりながら、やはり紆余曲折などあって、恥ずかしながら現在に至りました。就職活動の時から考えて比べ物にならぬ程に蛇行運転を重ね、それでも人生は時に連れられ先へと進んでいます。思えば、自分の生活を追いかけるのが精いっぱいの四年間でした。

 

 

 去る四月二日、ついこの間のことですが、都内の焼肉屋にて「じょーねつ」氏の送別会が開催されました。ぼく自身、あまり自分から何かに飛び込むことのない性分でしたが、今回はじょーねつ氏ご本人から「一度会ってみたかった」とのご連絡があり、初対面ながら、氏の送別会に参加する事となりました。殆ど貸切りに近い店内は、彼の送別に訪れた人々で溢れており、そうして話を聴くうち、氏が現職を辞め故郷へと戻るに至った明確な理由を伺いました。やりたい仕事ができたので、そのために故郷に戻るのだと。行き当たりばったりではなく、次を決めたうえでの送別会。地に足をつけた状態で、真直ぐ、生活以外を追い駆けている様子は、驚くほどぼくと懸け離れた姿に映りました。

 

 

 二〇一二年の就職活動中にぼそぼそと呟きはじめたTwitterも、今年で四年目となりました。じょーねつ氏は、四年務めた職場を去りました。やはり四年はひとむかしです。思えばものの見方も、ずいぶん変化したような気がします。二〇一六年はどことなく、自分にとって「節目」であるような気もしています。ジンクスではないですが、まずは転職応援ソングを録音するところから始めていくのも、自分らしくて良いのかなと考えています。あの頃と同じような感性でないとしても、今のほうが少しだけ上手に仕上げられそうな、そんな気がしているので。