暮らしの点と線

@suzuki_buffalo 結びます

恵方のおわり

 
 うつらうつらと二度寝を繰り返して出勤時刻となった。繁忙期と閑散期のくっきり分かれた波のある職場で、秋から冬にかけては高波が押し寄せる。この頃になると退社時刻は目に見えて遅くなり、家事や趣味に割く時間もぐっと減ってしまうのだが、ぼくはどうしても自分の時間を確保したい性質なので、仕事が忙しくなるときまって睡眠時間を削る。夜も深まり、窓外がいよいよ全くの無音になった頃、何か義務感に駆られて眠りに就く。自身の起床力不安のため、目覚ましの準備は度を超えて入念だ。所定の時刻になると、馬鹿のように陽気な音楽が五分間隔で連続九〇分ほど鳴り続けるようになっている。ぼくは毎朝五分間隔でうつらうつらと二度寝を繰り返し、九〇分目の最終アラームで起床する。
 
 睡眠時間を削れば当然眠気も大きくなる。高波の中、ひとりだけ舟を漕ぐこともしばしばある。ぼんやりとした頭には、時折なにか根源的な疑問めいたものが浮かんでいたりもするのだが、帰宅する頃になると綺麗に忘れている。要はふらふらとだらしのない人間なのだ。ものごとの区切りがよく分かっておらず、仕事と生活の線引きだとか、空想と現実の境目だとか、きっちり何かを分かつ能力に乏しいのだ。思えば、季節の変わり目を正しく認識できたことがない。人生の節目に於いて、適切な対応のできた経験がない。境目がわからないということは、分かち合うことができない人間であるということだ。
 
 職場近くのコンビニで大量に売れ残った恵方巻きを見た。このコンビニも区切りをよく分かっていないらしい。恵方巻きは昨日と全く同じ値段のまま、風変わりな人間が立ち止まるのを山積みでじっと待っているようだった。しかし、たとえば先行きのない雇用条件であるとか、絶え間ない叱責に感性を奪われているような人間が、さて能天気に恵方に向かって大口を開けて馬鹿らしく食事をするのかと言われれば、それは大いに疑問であった。「恵方巻きを手に取ることができる人間は、すでに恵方を歩んでいるのだな」と考えると、売れ残り方にも合点がいった。ぼく自身も、縁起の良し悪し以上の問題が山積みだったので、何も買わずにコンビニを後にした。社屋の近くで、家族連れとすれ違う。母親に連れられた少女が、スーツ姿の男性に「いってらっしゃい」を投げかけていた。ぼくは恵方の眩しさをぼんやりと感じていた。