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暮らしの点と線

@suzuki_buffalo 結びます

洗う男

日記

 もう一〇年近く一人暮らしをしているが、家事スキルに進歩が見られない。大学進学を機に上京してから今日に至るまで、ぼくの炊事力は「お湯を沸かす」地点より先へは到達していない。洗濯・掃除についても同様で、「洗濯機のボタンを押す」「物を一箇所に積み置く」より先は闇の中にある。これらは言い付けを守る三歳児と大差のない動きであるが、そこから二〇年以上を費やして、ぼくはそれらを自発的に行うまでに成長した。尤も、洗濯かごから衣類が溢れていたり、床面積が著しく狭まったりと、ある種の外圧に押し負ける形でしか家事を行わないので、それを成長と言えるかは疑問であった。

 唯一頻繁に行うのは皿洗いだ。気ままな一人暮らしには最小限の器さえあれば良く、そのため一皿あたりの回転率が高い。――これも外圧と言えば外圧なのだが、流し台が一杯になるずっと前に、ぼくは粛々と皿を洗い始めるのだった。たっぷりの洗剤でスポンジをわしゃわしゃと泡立て、カレールーやミートソースをつるりと撫でて刮ぎ落としていく。滑りが取れるまで流水で濯いだら、雫の一滴がきらりと落ちるまで丁寧に水を切ってやる。洗いたての丸皿の表面はやけに光沢があり、ぼくは少しばかりの充足を得る。

 洗うという言葉には、「"表面の"汚れを落とす」という含意がある。辞書的な意味ではまた少々異なるニュアンスを持つが――ぼくは全く根拠なしに、洗うとは表面を洗うのだ、と感じている。そのため、心が洗われるという言葉には、やはり心の表面に纏わりつく穢れを綺麗にするという意味があるのだと考えている。つまり心にかたちはあるのだ。ぼくは心について、開け口のない容れ物なのだろうと思う。それは丸みを帯びているのか、角ばっているのか。皿のようにのっぺりと平たいかもしれない。開け口がないため、内部ははっきりしない。何かが入っているのかもしれないし、からっぽなのかもしれない。性善説性悪説のどちらが正しいかを、誰も判断することはできない。

 先日、歌舞伎町のはずれにオープンした新設のスパを訪れた。開業したてということもあり、小綺麗な内装は好評であるようだったが、他施設より高めの価格設定が原因なのか、ぴかぴかの建物は閑古鳥の鳴き声さえ聴こえない程に寂れていた。肝心の温泉は、大浴場というよりは中浴場程度のものだったが、質素ながらも基本を押さえた造りで、何の気なしにふらふらと徘徊しているだけで一通り満喫できるようになっていた。浴場を出て、休憩所へと向かう。館内はざらざらとした絨毯が敷き詰められており、風呂上りの水気も足音もすべて吸い込んでいく。驚くほど静かだった。ぼくは自然と早足になった。立ち止まった途端に耳鳴りがしそうな、気持ちの悪い静謐だった。休憩所に辿り着く迄、ぼくは誰ともすれ違わなかった。

 ひとりで落とす穢れと、人に会うことで落ちる穢れとがある。新設のスパで落とした身体の穢れは、ひとりで落とす穢れだ。身体は、精神の容れ物でしかない。精神それ自体の穢れは、やはり他人との接触によってしか落とし得ないのだ。異なる個体の人間と、料理を囲み、酒を酌み交わす。器を満たすのは、やはり食べ物なのだ。恥ずかしながら、新宿のスパに出向いてまで、ぼくはせっせと皿洗いをしていたのだった。