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暮らしの点と線

@suzuki_buffalo 結びます

雪路

日記
 
 早起きの甲斐あって、雪がごうごうと降る様子を一寸見ることは出来たが、支度を済ませて家を出るころにはすっかり雨に変わっていた。積雪で排水機能が麻痺しているのか、そこらじゅうが水浸しになっている。路肩は特に酷く水が溜まっており、車道と歩道の境目がよく分からない――などとぼんやり考えていると、大型トラックが鼻先を掠め、跳ね上がった水で股下までずぶ濡れになってしまった。ぐっしょりと湿った両脚がとても冷たい。暖冬にすっかり甘えてしまっていた。今は冬なのだ。
 
 ぼくは豪雪地帯の生まれではないので、雪道の歩き方を正しく理解していない。それでも何となく、滑りやすい足場とそうでない足場の区別はついていたので、そのとおりにした。踏み固められたつるつるの氷雪は踵からぐしゃりぐしゃりと抉るように努め、まだ足跡のないふかふかの新雪は、足裏すべてを接地させてどしんどすんと踏み荒らした。雪道をぐしゃりどすんと進んでいると、不思議と己に野性味があるような気がしてくる。それならばと肩を揺らし、猫背気味にのっしのっしと雨を掻き分けていく。少し気が大きくなる。ひとりの時にばかり気が大きくなるのだ。ぼくは獣のように低い視点から獲物の首をすばやく掻き切る瞬間を空想した。ぶっきらぼうな大振りではない、狙い澄ました一撃。運動の経験に乏しいぼくは、ある種ヒロイックに見える動きに妙な憧れを抱いており、そういったものを空想の対象にすることが度々あった。いつしか雨粒はより大きくなり、風も強さを増していた。この英雄願望は、駅に近付くにつれて増えた人通りとともに急速に収まっていった。
 
 各駅停車のみの小さな駅が、人で溢れかえっていた。ぼくがホームに上って直ぐに入場規制がかかり、これ以降の人々は改札付近で待機しなければならないようだった。若い駅員の声で、焦燥した風のアナウンスが流れてくる。積雪により大幅に遅れ――振替運行を実施――一五分遅れの電車が五つ前の駅にいる――""一五分遅れの電車が、五つ前の駅にいる""……? 運良く定刻の三〇分遅れでその電車が来たとして、この混雑ではそれには乗れない。ならばその次は、さらにその次は乗れるのか?――ぽつぽつと、ホームから人が減り始めていた。「振替運行は一階より行っております」という、何とも要領を得ない若い駅員に乗せられた通勤客たちが、列車に見切りをつけて小さな駅を後にしていた。ほどなくして、ぼくも電車を見限った。
 
 駅の外には振替運行の気配はない。そもそも振替運行がバスなのかどうかもわかっていない。駅員に尋ねようとしたが、窓口で中年の男女がそれぞれ揉めており、長蛇の列ができていた。北千住に向かうバスが出ているかどうか、この列に並んで尋ねなければならぬのか。出がけに被った水のせいで、身体が冷え込んで辟易していた。北千住行きのバス停には、ひとつ心当たりがあった。キー駅まで出れば、何とでもなる確信もあった。窓口の中年男は、若い駅員に何かの責任を取らせようとしていた。ぼくは黙ってバス停へと向かった。道中、駅に向かう人々と何度もすれ違い、何度も話しかけたい衝動に駆られた。駅に行っても、列車は動いていませんよ。道行く人々に、ぼくは心中で宣託を授けた。彼らはそれでも往くのだ。
 
 大通りから離れるにつれ、駅と反対方向に向かう人間が増えてきた。彼らもまた、預言者だった。皆が皆、心当たりのバス停に向かっていたのだった。彼らもぼくも、一つしかそれを知らない。右の角から、左の家から、鴉みたいな男が現れてはぼくたちの一団に合流した。神は本当にぼくを導いたのだろうか? その疑問はすぐに形となった。約束のバス停には、東京都内のどのラーメン店よりも長い行列ができていた。どうも行列の終点は、すぐ先の角の向こうにあるらしかった。ぼくの前を歩いていたひとりのサラリーマンが、列を抜けた。そのままぐしゃりぐしゃりと何処かへ歩いていく。彼は歩くのだ。さらに先まで歩くのだ。彼の背中に後光が射していた。神はやはりぼくを導いている。大いなる託宣を受け、ぼくも列を外れた。列の後ろにいた老人が少し、不愉快な顔をした気がした。
 
 皆が皆急いでいるにも関わらず、誰も無理に早足になったり追い越したり等はしない。雪中行軍には暗黙の規律があった。ぼくもその規律に飲まれていた。道程も中盤に差し掛かった頃、自転車の老人とすれ違った。ペダルを漕ぐ足も、ハンドルを持つ手も、ぶるぶると震えながら覚束ない様子だった。ぐしゃりともどすんともしない車輪に命を預けることができるのは、やはり死期が近いからだろうか。しかし、特に理由もないのに何か釈然としない焦りから会社に向かっていたぼくは、その老人を滑稽だと笑うことができなかった。皆が皆、ばからしいことをしているのだ。当事者かそうでないかの違いでしかないのだ。
 
 北千住駅はがらんとして、驚くほど寂寥に満ちていた。人々は一列になって駅に吸い込まれていた。まるで工業製品みたいだった。駅の入り口で、議員が何かを配っていた。こんな日にも街頭に出ている私は、あなたたちの味方ですよ。偉いでしょう。短時間でどっと疲労したぼくには、電車に乗らないすべての人間が傲慢なものに見えてしまう。視界の端で、駅員が忙しなく動いている。列車の接続を待って――入場規制を――エスカレーターを止めて――北千住の駅は、各駅停車の小さな駅よりも大変な状況になっているようだった。背後から供給される人の流れに押されながら、ぼくは人でぐしゃぐしゃの改札に吸い込まれていった。